2016年5月19日木曜日

Diary. 127 水面の光

急に病気がぶり返して、10日ほど、まともに家から出られない日が続いた。当然、仕事にも行けず、そのことがまた新たなプレッシャーとなり、負のループから抜け出すのは困難極まりなかった。

なんとか自力で這い上がり、約二週間ぶりか、職場へ顔を出し、数時間だが仕事を務める事が出来た。驚くほど手の震えは止まらず続いたが、何てことはない、もはや10年にもなる仕事だから、与えられた業務をこなし、また自ら仕事を見つけて二つ三つこなす事は容易く、働く能力のほぼ落ちていないことを認識し、家路に着いた。
その夜は頭の中が仕事のことでいっぱいになり、あれはこうやろう、これはこんな内容にしよう、そんな事が無限に湧いて、朝方まで寝付けなかった。

そんな日々だったから、能動的に休みだと決めて休むのは、なんだか新鮮だ。住居から15分も歩けば、こんな地方都市の一番の中心街へ出られる。活気があり、ゴミゴミとして、埃立ち、高層ビルが乱立している。

軍パンにTシャツ、手ぶらでやってきた僕はいつものコーヒー屋へ。店内では飲まず、カップを持って外のベンチに座る。
右のカーゴポケットには志賀直哉の短編集。左のカーゴポケットにはコンパクトカメラが入っている。必要最小限の持ち物だ。

純文学は良い。タイムマシーンの様だし、最も日本人が古来から得意としていたであろう、非常に細やかな感情の触れ方や機微を、最小限の言葉で表現している。
エンターテインメントでは無いのだ。人間の息づかいが聞こえる、人生の哲学や教え、生命、そのものが込められている。

それらと、自分が表現手段として選んだ、写真とに通じる部分もある。何かを媒介して、客観的な他者に訴え掛けるという意味では、文学は表現であり、写真もまた文学的要素を大いにはらんでいる。

あの人の言った、写真を吹っ切るとはどのような感覚だろう。僕は僕の写真に、無駄を省くことばかり考えていたが、それでは物足りないのか。
足して足して、自分というものをむしろ全て絞り出して与えて、そしてもう一度、本当に自分にとって、不必要と思えるものだけを省いていく。ちっぽけな固定観念を一度木っ端微塵に破壊する事。それが次のステップなのかも知れない。

ラテを半分ほど飲み干したところで、この文章はここまで書けた。約15分ほどか。そろそろ終いにしよう。

右肩を揺らすように春の強い風が吹き抜けていく。どこからか管楽器のバンド演奏が聞こえる。駅ビル中央の大きな階段のオブジェには大量の水が流れ続け、傾いた夕日がその水面に、躍り狂うように激しく輝いている。眩しすぎて、それが求める写真にはならない事を僕は分かっていた。観光客はしきりに、水面にデジタルカメラを向けて笑顔を溢れさせていた。



2016年5月13日金曜日

Diary. 126 煙りの中

漱石も鷗外も、坂口安吾も面白い。
随筆が面白いが、小説でも、何か作家のリアリティや、生くさい匂いのするものは面白い。
その中にのめり込むことが出来る。

草枕、随筆集、堕落論など読み終えた。桜の森の花の下は、正に傑作だった。これほど興奮させられたものはなかった。神がかっているし、また狂気じみている。そして途中、目が覚めるほど美しい。美しい哀しみに満ちていて心をさらわれる。

都会はうるさい。田舎は物足りない。家はあれこれ揃いすぎていて、書にふけるには逆に不便だ。気が散る。テレビを付ける。物音が気になる。
よって止むを得ず外に出るが、外ももちろんうるさい。店もうるさい。繁盛せず静かな店は魅力が薄く、気持ちが乗らない。居心地の良い店は人気で人が多く騒がしい。
居心地が良くて、店も良いのに、客が少ないところを見つけなければならない。
これはなかなかない。本当に売れていない不味いのはすぐ見つかるが、いわゆる隠れた良い店は、滅多にない。あってもだいたいは、店主がそれを自覚していて鼻を高くしていて、その表情が鼻に着く。

とにかく、コーヒーがそこそこ旨くて、適当に静かで適当に騒がしくて、人のいないカフェがいい。まずないが、やっと一つ見つけた。平日なら、ほぼ理想的だ。

コーヒー二杯で二時間は居れる。たまにBGMがあまりに陳腐で気が散るが、我慢出来なくはない。店員も当たり障りなく良い。
キャップを後ろ向きに被り、シャツにジーンズでリュックを背負ったニセモノのヒッピーが、ラテを飲みながら古い文学に読み耽る。

隣は花屋だ。頗る賑わいがない。客の居るのを見たことが無い。そのまた隣はヘアサロン。こちらは平日でもパラパラと客が来る。
エスプレッソと草花と、ヘアケアの人工的な芳香が、店員が動くときの気流に乗って気まぐれに届く。この不明瞭さが良い。僕にとって都合のいい店は、商売が長く続かないと思う。

この時代のものを読めば読むほど、日本人らしさを知る気がする。今の日本人は、ひどく無責任で、見境がなく、また何者でも無い、そう思えてならない。
外から来たものを取り入れることしかしない。内から生み出る人間味や、リアリティがない。生まれた時からそんな環境だから、仕方が無いのは分かる。
だから、四十を前に自己というものに、少し興味を持ち始めるのだろう。何の疑問もなく洋服を着て、何の疑問もなく西洋式の音楽を聞き、横文字に囲まれ、クリスマスを祝い、洋食を食べる。日本はどこにあるのだろう。それとも、これこそが今の真の日本らしさなのだろうか。それをすぐには了解が出来ない。

仕事柄、ファッション雑誌に一部自分が載った。違和感が強かったが、そこに並ぶ同じく同じ業界に身を置く同世代のファッションを見る。
批評するつもりはないが、僕とは違う気がした。会って話してみなければ分からないが、裸じゃないなと思った。皆、しっかりと服を着ているのだ。
僕は服を着ても着なくてもどちらでも良い。そこにアイデンティティは無い。裸で自己が表現出来るか、その事しか、いつからか考えなくなった。物足りなさや、物寂しさは無いのだ。服が全て消え去ってもなんとも思わない。またジーパンとTシャツが買えたらそれで足りる。

日本はどこへ消えたのか。消えかけているのか。ロウソクの火の後にしばらく漂う、薄い煙りを必死で理解しようと努めるように、僕は消えかけの自分らしさを探している。









2016年5月7日土曜日

Diary. 125 闇の中の星

鷗外の随筆は思いの外難解で、同じところを何度も何度も往復してみたり、
放っておいてどんどん先へ読み進めたりと、脳細胞を苦しめて刺激する。

するといずれ文字は文字の意味をなさなくなる。単語は単語の存在感を弱める。何が言いたいのか、
その空気感だけが、活字という簡潔な要素を伝って脳に届き始める。
一種のトランス状態、酩酊とでも言おうか、意味はわからないが、感情が言葉に乗って伝わり始めるのである。

読み終わったら、もう一度始めから読み直そうと思っているから、尚更気楽に進められる。
こう思える書は少ない。だいたいが、一度読み干せばしばらくは要らない。
重要なものは、いやでも思い出して、棚から引っ張り出して、二回目が始まる。だいたいが、最初ほどの味が残っておらず、薄口で物足りないことが多いのだけど。
内容の濃いものは、また相性の良いものは、何度でも味がある。まるで茶葉を何度も違う温度で入れて、味が変わるのを奇妙に思う事に似ている。

さて鷗外は思いの外人間的だった。一般の雑念を持っている。小説はあんなにも無駄がなく澄んでいるのに、作者と作品とにはズレが生じる事が、常なのかと知らされた気持ちがする。

僕の作品はどうだろう。そのギャップをもっと広げていけるだろうか。
写真はもっと、僕から遠く離れて成り立てば良い。そう願っている。遠く解き放ったような、
新星の爆発のようなエネルギーを、生にも写真にも求めている。
鷗外の随筆から、そんな感情を見つけた。



2016年5月5日木曜日

Diary. 124 道の先



一応は二度目の個展が終わりました。皆様ありがとうございました。

新しく感じることや、気付くことの多い展示になりました。そして、僕はまだ撮り続けていくのだと、
改めて気付かされた機会にもなりました。僕の呪縛は、より一層心身に深い所へまで入り込み、絡みついていると思いました。そうして、生きていくのだと思いました。

たまたま来られた美術関連の講師をされてる方が、僕の写真を見て下さり、まだ吹っ切れ方が足りないと仰ったそうです。
僕も思います。まだまだ、軟弱なのです。僕も、写真も。
そして尊敬する先輩からは、誰かに気を使いながら写真をやっているように見える、と言われました。
なるほど、これは鋭い、僕は僕の今までの写真を壊さなければいけないと感じています。圧倒的に、何かが不足しているのです。

それはそのまま僕自身に言えることなのです。僕は足りてない、覚悟も、努力も。こんな簡単な言葉で陳腐に聞こえるくらいの、その程度の存在なのです。

今僕はなぜここに居るのか、これが本当に僕なのか、なぜカメラを持つのか、なぜ生かされているのか。
疑問は消えては現れ、消えては現れて僕を惑わせます。そうして、また同じように僕は答えを求めるのです。
その道はちょっとやそっとの覚悟では歩けませんよ。言われて、我に帰りました。覚悟は、いずれ備わるのでしょうか。それとも、ずっと孤独なのでしょうか。路傍に彷徨うのでしょうか。

今日という日はとても素晴らしい。そう思える事は稀です。だから、今日という日は感謝に値します。そして二度とは訪れない。
僕は前を向いて、書を持って、僕の選ぶ道を行く。
それは誰に迷惑がかかろうとも、決して逸れることなど出来ない、
選ばされた道。行くと決めたのは、紛れもなく自身。その先に星の明かりほどの未来すら待っているか、何の保証も無い、尊い無の道。