2015年5月31日日曜日

Diary. 96 花が咲き誰知ることもなく散る






 花が散り、残るのは罪悪感だけ。無理やり心で遮断して、
今は自分の為が人の為世の為だと、思い込ませる努力をする。



Diary. 95 打ち崩せない毎日






 でも結局は自分が変わらなければ何も変わらない。

 誰にも頼りには出来ない。自分と対峙する、しかない。


2015年5月29日金曜日

Diary. 94 新しい毎日














街を撮るシリーズは続けながら、最近は花も撮り続けています。

カメラを3、4台、使い分けながら。

そんな日々が、新しい毎日を微かに、か細く呼んでいる、そんな気がしています。


2015年5月27日水曜日

Diary. 93 街行けば息が詰まる





















































今自分がどうすればいいのか本当に分からない。

何が欲しいのかも分からない。

誰かそばにいて欲しいのかも分からない。

毎日薬を飲んで、カメラを抱いている。



2015年5月26日火曜日

Diary. 92 此岸から呼ぶ花





 僕の行きたいとこ、そこはまだ見えない。

 こっからじゃまだ見えてこない。いつまで撮り続ければいいのかも。

2015年5月24日日曜日

Diary. 91 世界は色を拒み続け眠る




































 今日感じたことは、今日伝えたいと思うのです。

 すごく、良いです。その感じ。



Diary. 90 擬人花






















花言葉、「bashfulness(恥じらい、はにかみ)」「compassion(おもいやり)」


人間の生き死にの定義を花に当てはめるのもエゴな気もするけど、生物の生き死に、
花が枯れることが一つのお仕舞いとするならば、写真はその時間概念をいとも軽々と超越して
見せてくれる。その全生命力を持って咲いた一瞬を捉えたモノクロームのポラロイド。
それを飾る散ったあとの同じ花の花弁。写真はその鋭く尖った記録性を持って花を記録し、
またそれを見て人はエゴイスティックに記憶を呼び起こされる。写真の持つ優しさと残酷さ。

こんなことを部屋で一人で行っていると、泣きたくなる気持ちと同じくらい、優しい気持ちも
生まれてくる。有難い気持ち。僕がいまこうして我が儘に生きて入られている事実に、
誰にでもなく、すべての事物存在に対して、感謝の意を表したくなるのです。




Diary. 89 たかが道具の絆達






 カメラという機械を、身体の一部に取り込むかのような、
肉体的な繋がりについて言及したり思考したりするのは、日本人特有の
流れでもあると、何かの古本で読んだことがあるけれども。

 確かに、意思を通わせなければ撮れ無い写真は、存在すると思う。

 先人達の作品や製作過程にもそれが垣間見える。だから、選び方は、
たとえ遠回りでも、無駄になっても、撮ることと同じくらい大切で、
譲ることは出来無い。


2015年5月22日金曜日

Diary. 88 影を引き連れて













 僕にとって写真は商売道具では無い。僕の心臓、そのものです。

 止まれば、それまでなのです。


 花は儚くも可憐です。見られる事を知らずに、見られて散っていきます。

 人の人生などと比べるのは愚かだと思うほどに、儚く、可憐です。


 一瞬ではなく、永遠と続く時のひとかけら、手から手へ、引き継がれる瞬間の
交差なのではないでしょうか。あなたのその手に触れた時、きっと、時が流れるのではないでしょうか。


Diary. 87 街行けば腹が減る





























 定食屋は悪魔の棲家。入り難い。



2015年5月21日木曜日

Diary. 86 窓辺から叫ぶ





 活動的なわけでも、やる気があるわけでも、なんでもない。

 なんなら楽しいわけでも無い。

 写真に費やすのは、それ以外に発散する手段が無いからやってるだけ。

 今の僕を支えるものは他に何もないからです。勘違いしないで。





2015年5月19日火曜日

Diary. 84 想像の群青




 今日は2000mは泳いだのではないだろうか。青く淀んだ海みたいに、
街の中をライカ片手に、呼吸法が肝心だ。コンビニエンスストアというブイで
休憩をし、コーヒーの栄養補給も挟みながら過呼吸の恐怖を既読無視する。

 シャッターは36回掛ける3本。トライx400を増感、50年前のelmar50mmで
街をサクサクっと切り刻んで行く、想像の先は中央区本町の古ビル、現像液に浸され
水洗されたRCペーパーに念写される。それは一瞬の出来事で、思い浮かび、切って、
レバーを巻き上げたらもう記憶からはすでに全消去されている。それは呼吸より、歩幅より、
短く呆気ないもの。

 言うことの聞けない質の悪いガキみたいに、僕は写真が早く見たくて見たくて仕様が無くなる。
時は無情だし正当だから、そんな感情は門前払いで僕はケータイの時刻を見つめてインスタする。

 1h、2h、モノクロームもカラーも凝視に変わりはない。あるものをあるように、ただ、
そこにあるものとして認識しようと斯く立ち向かうだけである。明日は3ビルに5時。
四つ切りを10枚のPRO400仕上げ。レーザーのお手並み拝見、プリントという物質が手に入る、
そんな子供がカードゲームを楽しむくらいの陳腐で夢にあふれた夢のような想像。映る青に、
胸躍りますように、僕は半跏趺坐して祈るだけ。何にでもなく、ただ、祈るだけしか出来ない。


Diary. 83 距離との決別




 僕の性根まで腐らせるにはまだこの病も手が届かぬと見え、なんとかならないものかと、
昨日は小雨の中、突然外へ走りに出てみた。走るのなんて何ヶ月ぶりだから、体は重く、
息もついてこない、なかなかしんどいが、いい汗がにじみ出てくる。それこそ毒素に汚されたような、
ベタベタとして心地の悪い汗が。20分も走ればもう足が動かなくなり始め、軽くめまいもして、
近くの公園のベンチにしゃがみ込んだ。ベンチは雨で濡れていて、座ると尻が冷たく、ひんやりと気持ちが良かった。

 カッパのフードをかぶって息が落ち着くまでしばらくしゃがみこむ。少し、清々しい。こんなの久しぶりだ。
10分ほどしただろうか、落ち着いてきたので歩いて家まで帰る。と、近所の八坂神社の前を通りかかった。
フードを外し、会釈をして鳥居をくぐる。手水舎で両手、口を清め、挨拶をして回る。財布を持ち合わせてないのが
残念だったが、また最後鳥居で振り返り、頭を下げて帰ってきた。もはや神頼みである。

 帰るとシャワーを浴びて着替え、ひたすらヨガの書に目を通しながら座法と呼吸法を練習する。少しでも、
この毒素が体から排出され、たくさんの大切な人たちにこれ以上要らぬ心配や迷惑を掛けぬよう、祈る気持ちで、
座を組み、深呼吸をする。0時、床に着いた。相変わらずなかなか眠りに落ちないが、昨夜はそれでもまだましで
あったように思う。8時に目が覚めると、体の関節が硬くなっていた。ストレッチをすると、すぐに解れて戻った。

 天気予報は外れ、外は明るく、雲が楽しそうに形を変えながら浮かび回っている。

 ああ、今日は今日だし、相変わらず毎日は毎日でしかないが、昨日より今日は悪くないと思えるのは
本当に久しぶりだな。あの可憐な花の写真を送ってくれた方の気持ちを考える。僕の世界には色などあったのだろうか。
僕の知らない、知ることの出来ない世界だけれど、もしそうであったなら、純粋にとても嬉しく思う。

 時は僕に知らん顔で過ぎていく。急かすでもなく、待つでもない、ただ平然と同じペースで、過ぎていく。
僕は僕のペースを乱されてしまったけど、少しずつ取り戻したい意志はある。武器は文章と写真、それだけ。
抗う存在感は塵のように不確実なものであるが、0と1は違う。僕は0ではない。少なくとも0ではないのだ。
行き先は一つ。もうすぐコンテストの締め切り。自分と戦いながら、なんとか作品もまとめてみせる。
斯く在る、それを頼りなくも我が信念として、今日も変わらない今日と受け止め、向き合って過ごす。
今はただ、それだけ。



2015年5月18日月曜日

Diary. 82 体内の毒





























 発散というものは、基本的には外側からの刺激、もしくは自発的な行動によりなされたり、
誘引されるもの。アロマ、ストレッチ、マッサージ、運動、音楽、読書、映画、テレビ、これら
全ては外側からの刺激ないし吸収である。
 しかしこの体内の毒はそんなものではびくともせず僕の内部に居座り続けている。
デプロメール、レキソタン、ドグマチール、効いていたはずの薬が全く効いている気がしない。
全くという事でもないが、発症したての頃に比べ、今の方が決定的に効果が薄い。落ち着かない、
眠れない、仕事に集中できない、一つの事に取り組めない、イライラする、ムカムカする、全身を
巡る細胞、血管、その全てに毒素が小さな根を張ってへばり付いているような、そんな感触である。
これほど不快なものはない。なんとかして振り払おうとするが、所詮思いつくものなんて外側からの
刺激や吸収でしかない、毒素を吐き出す手段は今の所思い浮かばないのだ。あの、あの写真ですら、
ほんの気晴らしにすらならない。気晴らしになっただろと自分に無理やり言い聞かせその振りを自ら
演じるくらいしか出来ない。バカヤロー。バカヤローー。

 デプロメール、レキソタン、ドグマチール、エルマー、プラウベルマキナ、ウルトロン、カラースコパー、
クセノタール、フジクローム、なんだって一緒だ。誰か僕の体内に入って根っこを引っこ抜いてくれ。
でなければ、そっと手を握っていてくれ、眠りにつくまでで構わないから。何も言わず、ただ静かに、居ないかのように、
誰か、この手をただ、握っていてくれ。それだけでいい。バカヤロー。バカヤローー。

 毎日が毎日でしかない。曜日の違いも天気の違いもない。味も分からないしコーヒーも美味しくない。何かを
食べて美味しいと思わないし甘いとも辛いとも塩っ辛いとももはや違いがほとんど分からない。
これだけ言っても分からないかい。これだけ言っても分からないのかい。じゃあ、バカヤローは俺だ。
バカヤロー、バカヤローーは、俺だ。俺だ。ようく分かった。それでいいんだ。いずれケリを付けよう。
俺もそこまで呑気じゃない。ツケはきっちり払おう。欲しいものはくれてやる。これが最後だから。



2015年5月17日日曜日

Diary. 81 小石





 計画叶って、上手く交換入手する事が出来たライカM5。ライカで一番しっくりくる。
本当は35mmレンズが欲しかったのだけれど、お目当のが無かった。主任の勧めもあって、
以前より一度は使ってみたいと思っていた、Elmar50mmにしてみた。レンジファインダーで
50mmを使うのも久しぶりだけど、いざファインダーを覗いてみると、思ったより広い。
こんなに視覚にしっくりハマったっけ?考えてみれば、僕の約7年の写真人生の中で、
今まで一番長く使ってきた単焦点レンズは50mmだ。だから相当体が慣れてるのかも知れない。

 踏み込んで撮る必要が無い分、たまに2、3歩下がって撮らないといけない場面もある。
それがまたなんだか懐かしい。ちょっと下がって構え直す。被写体と向き合うための儀式
のようで、リズム感が心地いいと思っていた頃を思い出す。スナップで50mmは本当に久しぶりだ。

 ところが、調子よく5本目くらいのフィルムを撮りかかったところで、シャッターが降りなく
なってしまった。故障だ。くやし〜、せっかく調子が出てきたところだったのに、またわざわざ
お店まで行かないといけない。。店は心斎橋、でも、今の僕にとっては心斎橋はめちゃくちゃ遠い。
普通の人で例えるなら、大阪から奈良まで行くくらい遠いと言ったら感覚が似ているだろうか。
しかも、いつ行っても人混みで溢れているあの界隈は、本当にちょっと決心しないと足が向かない。
わざわざ東側のまだ人が多少少ない方面から向かうくらい、まだそんな状況なのだ、今は。

 撮るときはどうしても気分がある。28mmがいいときもあればブローニーがいいときもあるし、
ライカで50mmというスイッチが入ったところで足止めをくらうのは、結構、ムカつく。ブー。

 と言っても仕様がない。撫でても突ついてもライカさんは動いてくれない。専門家にまかせるしかない。

 どれほど自分が、今の自分の葛藤ややりきれなさ、不満や不安を写真でしか発散できていないか
よく分かる。本も読むけど、やっぱり写真は写真だ。もっと、もっと撮りたい。 


2015年5月16日土曜日

Diary. 80 人に理解し難い葛藤























 これほど苦しみが続くとも思ってなかったから、それなりに消沈する思いもある。

 これがトンネルである事は冷静に理解しているので、いつかは抜けてまた明るい外へと
出られるのは、心底から承知してはいるのだけれど。なかなか、長い長い筒の中にいるネズミの気分。

 写真が唯一の憂さ晴らしなのに、それですらこの鬱陶しい心地というやつは邪魔をする。
目に見えないからシバき倒して踏み潰すことも出来ないし、本当に、嫌なやつ。

 読書、運動、トレーニング、散歩、音楽、入浴、睡眠、写真、映画、ドラマ、試せることは
片っ端から試しているのだけれど、本当は分かっているのだ。一番欲しているのは、理解だ。



2015年5月15日金曜日

Diary. 79 自分の他のもう一人の自分



































 最近は自分の外側にいるもう一人の自分についてよく考えたりします。
自分が客観する自分、人に見られる自分、人に見られていない自分、でもどれも、
真の自分ではない。どこにもそんなものは存在しないのだと、思っています。

 「斯く在る」、ただそれだけなのだと思います。どうあるかなんて、分からない。
しかし煩悩を捨てられない僕はこうありたいと、時に願うわけです。こうあればいいのにと。
出来る事といえば、それなりの仕事と、それなりの写真、適当に見繕った出来栄えの良い笑顔と世間話。
全て見透かされてしまいたい、そうすれば、どれほど楽な事か。自分がどうありたいかどうかなんて、
考える必要もなくなるのに。

 写真は面白い。ひたすらに撮り続け、そろそろ7年になりますが、撮れば撮るほど、自分が写らない
瞬間に出会える事が、ごくまれにある。これはご褒美としか思えませんが。もしくは偶然。それを
ちょっと大きく引き伸ばしてプリントして、面と向かってみる。そこには自分が写っていない、
ただの写真が「斯く在る」。それが、極めてアマチュアな自己満足であり、この為に僕は辛い思いをして
仕事をしたり外へ出かけては黙々とシャッターを切り続けたりしていたのだと、その時初めて思い知らされるのです。

 まるで、沼。沼の天国と地獄。どちらも似たようなもの。インスタント沼は面白い映画だったけど、
世の中のほとんどの事はなんとかなると、僕も思いたいしどこかで思っている。この状況も然り。
だから、僕は明日も歯を磨くし飯を食うし仕事をして写真を撮ってインターネットにアップする。
こうしていれば、ほとんどの事はなんとかなると、そう思いたいし思っているのだ。

 混乱、混沌、迷い込んだ森からは光だけが見える。方角は自分が決める。斯く在るのだから。