大阪都心部の少し歩いた駅続きの路地に、今も古書街が残っている。
とても綺麗に掃除が行き届いたこの通路には、10店舗ほどの古書店が並んで入り、時を止めている。
と言うより、時計の動きをゆっくりと感じるような、田舎に帰ったようなのんびりした空気が、いつもそこにある。
その内の一つに、たまにふらりと立ち寄る。洋書、邦書、歴史小説、心理、哲学、戦争、宗教。狭い店内には広いジャンルの、魅力的で知らない本が、
順々に至って普通に並べてある。
ある時、店内で少しスマートフォンを触っていると、60歳前後に見える店主らしき男性に、すみません、店の外でお願い出来ますか?と、当たり障りのない物腰で告げられた。
あ、すみません。さっと外に出て用事を済ませ、スマートフォンを仕舞い、店に戻った。
冷静に考えれば、店内でスマートフォンを操作してはいけない理由を、お互い即答する事は出来ないだろう。
これは言葉とか、決まりとか、そう言うものではなく、気持ちのようなものだ。店にも客にも、大人として最低限の礼儀を持って向き合おう、そんな日本人らしさが、まだこの古書街には生き残っている。指摘を受けて、むしろ心地が良いのだ。
ある日、またふらりと立ち寄って森鷗外の随筆集を手に取った。三百八十円。文庫本は現代的にぴったりとビニールで封じられているから、表紙の簡単な説明からしか内容を推測出来ない。
でも、古書なんてそれで良い。
決めて、片手に持ったままじっくり店内を見て回って、よし、とレジへ行った。
ありがとうございます。
ゆったりしたストライプのシャツに、テニス風の白いニットベストを着た店主。身なりからは世代や、生きてきた時代の背景が、うっすらと垣間見える。古着のアーミーシャツを着てジーパンを穿き、無意味に大きなリュックを背負った、ニセモノのヒッピーみたいな僕に、店主は丁寧に対応した。
袋は結構です。そう言うと、
ではビニールも外しておきましょうか?と。今すぐにでも読み始めたい気持ちを悟られたかの様に、優しい笑顔で裸の本を僕へ手渡した。
ありがとうございます。互いに礼をして店を出る。文庫はアーミーシャツの胸ポケットに、ぴったりと収まった。
物の売買はある種文化的だ。貨幣価値が人々に根付くまで、物と物のやりとりはもっと人間的で、体温のあるものであったに違いない。
この古本屋からは、まだ体温を感じる。
地下鉄に乗り込み、少し温まった本を胸ポケットから取り出して、二駅分の時間、偉人の随筆に入り込む。
窓に流れる黒い景色はいよいよ意味を無くし、代わりに、見た事もない景色を脳細胞は想像させる。次の駅でまた胸ポケットに本を仕舞い、職場へと向かった。