2016年10月18日火曜日

Diary. 132 薔薇の秋




 作文の習慣は無くならない。純文学にはますます魅了されて止まない。

 久しぶりにたたくキーボードは拙く、打ち損じが耐えない。指の先まで、脳からのリズミカルな
指令がスムーズに届いていない。とても気分が悪い。

 あまりの運動不足に体内がうずき、秋の河川敷へと走りに出る。その半分は、ゆっくりと
歩いて過ごす。
 数日ほど前から、気配は秋へと全く変わった。外気は澄み渡って、視界が非常にクリアだ。
透明度が高すぎるのか、目の前の全てがくりぬかれて、紙細工の様に見える。
 人も、車も、街も、住宅も、全て重なり合ったペラペラの紙のように見える。それがとても安っぽくて、
なんだか落ち着いても感じるが、同時に現実のものとはとても思えない。作り話の中に生きているようだ。

 軽く汗をかき、全身の血管がとても久しぶりに押し広げられて、澱んだ血液が元気良く全身をかけめぐる。
自分が走るのよりも早く、血が、体の中を流れるのが分かる。心地は悪くない。

 趣もない都会の花屋で薔薇を二輪買う。
 片方は早くしおれていく。もう片方は、まだ美しさを残している。悲しい気持ちだ。

 好意を持って、これらにカメラを向ける。クローズアップフィルターをレンズに二つ取り付けて、
かなり近い距離から写す。近付けるのは、物理的な距離だけだ。どうやったって、人と薔薇の思いは
近付けなんかしない。

 モノクロームのフィルムが、花びらの繊細な構成を仔細に写し撮ろうとする。僕はそう仕向けはするが、
望んでいるのかは分からない。 僕に血が流れるように、薔薇には水が流れているのか。秋の水が
ひやりと流れ込んでいるのだろうか。
 どれほど僕なんかより、清純だろうか。うらやましくてまた、カメラを向ける。




2016年8月28日日曜日

Diary. 131 乾いた空


7月某日

花は咲き、朽ちて、首をもたげ枯れ始めると
誰かにちぎられて放られたり、そのまま落ちて土に還ったり出来る。

しかし人はどうだろう。ぐったりとうなだれ、もはや腐り始め咲くことは困難であったとしても、
誰も茎をちぎって放り投げてくれやしないし、そのまま落ちて土に還れるという約束も無い。

人の人生のなんと残酷な事だろう。
この生かされている感覚は、拷問にも似た無慈悲さだ。
いっそ全身がカラッカラに渇いて、握ればパラパラとパン屑のようにこぼれ落ちてくれれば、
もう何も、悔いなんて残りやしないのに。





2016年6月29日水曜日

Diary. 130 時の雨。




いつものお決まりの、程よく空いているカフェに久しぶりに来た。家に引きこもっているか、もしくは少なからず仕事をしていたので、
しばらく足を運んでいなかった。

夕方6時過ぎ、仕事帰りだろうか、思ったより人がいる。
一番奥の暗い席が空いている。リュックを放り投げてカウンターへ、アイスラテを頼みに行く。

ザワザワと、不快でも安心でもない雑音が続く。店員は1人で切り盛りしている。手際の良さと、愛嬌の良さがとても好印象だ。
長年、接客業をしてきた性か、どこへ行っても接客態度は気になって目を鋭くしてしまう。何か文句が言いたいわけでは無いのだけれど。

6月が終わる。これほど時が無駄に過ぎたと感じる半年は、生まれて初めてだと思う。この1年くらい、そうかも知れない。僕という人間は前進を続けているけど、きっと望んだ形では無いので、純粋に納得がいかないのだろう。

梅雨が続く。僕の生活も梅雨のごとく、曇ってジメジメと気だるいままだ。カラッとした眩しいほどの、晴天は訪れるだろうか。乾いた汗の清々しい匂いのする、落日は訪れるだろうか。

時は無情にも、季節を推し進めて行く。
押し出されるように僕も、ずるずると前へ追いやられる。擦り傷はきっと、大したことは無い。雨が降れば、全て流れ落ちるから。





2016年6月24日金曜日

Diary. 129 夜の住む街



 ラボにしばらく行ってなかったので、溜まりに溜まった未現像のフィルムを
一部持って、足を運んで見た。すると不在だった。

 めずらしいな。そう思い、電話して見ると、モノクロ師匠は体調を崩していた。

 とっさ、僕が行かなかったせいだと思ってしまった。勝手な思い込み、それでしかないけど。
出来る限りの明るい声が自然と出た。僕が売れるかどうかは先生にかかってるんだから、
弱ってる場合じゃないんですよ、なんてどっちの強がりだか分からない言葉を伝えて、
先生も、ごめんごめん、世に送り出さなきゃなんないもんね、なんて言ってくれて。

 最近、写真を撮る気にならない。向き合う気にもならない。しかし、これで再び火がついた
気がした。僕はやはり、だれかのために写真を撮り続ける人間なんだ。この呪縛のために、
幸せな呪いのために、カメラを持って街を徘徊し続けるのだ。納得がいった。

  久しぶりにカメラを持って歩く街は少しだけ緊張した。

 とりまくったフィルムは積み上がっている。プリントしたいカットも何枚もある。
でも、もっと撮る。撮りまくればいい。手段はなんでもいい。

  こうしてしか、前に歩けない。そういう不良品みたいな人間なんだろう僕は。

 じゃあ、そのようにしよう。


2016年6月1日水曜日

Diary .128 約束の目覚め

目が覚めている、意識があるうちは苦痛の袋に覆いかぶされている。
安らかなのは眠りに落ちている間だけ。
薬を飲んで横になる。
何時間でも眠る。
夢は眠りを妨げる。
眠りを妨げる何かがあるから夢を見る。
全身が毒素に浸されている。
体を動かし汗をかいても毒素は出ていかない。
活字が入り込む余地もほとんどない。
無理やり隙を見つけてねじ込む。
大した感動も衝動も無い。
勢いだけでモノクロフィルムを注文する。
いつ届くのやら分からない。
撮るのやら分からない。
働くのやら分からない。
歩けるのやら分からない。
陽は射して目を攻撃する。
雨は足に絡みつき歩みを拒む。
風はどうせ無理さと耳打ちをする。
通り過ぎる車が諦めろと騒ぎたてる。
僕は靴を履く。
黒い軍靴は硬すぎて靴擦れをする。
重い靴底はガチガチと不快に音を立てる。
和服と草履を取り戻せ。
僕はアメリカナイズされたヘタレ日本人。
欧米化されたヘタレ日本人。
ミルクを飲み、パンを食べ、ベッドに眠るヘタレ日本人。
西洋医学に希望をつなぐヘタレ日本人。
いっそ、明治か大正に生まれたかった。
インターネットで洋服を売って会社に成果をもたらすヘタレ日本人。
写真を撮ってネットに載せ、動画を作ってネットに載せ、文を書いてネットに載せ、成果をもたらすヘタレ日本人。
いっそ、小僧に生まれたかった。
後悔と言う名の闇が、皮肉に今日も僕を明るくさせる。
僕はとっても明るいヘタレ日本人。
そのうちくたばってへたり込む、痩せこけてヘラヘラと笑うヘタレ人間。
明日が来ることがこの世で一番残酷な約束。
約束は永遠に守られる。




2016年5月19日木曜日

Diary. 127 水面の光

急に病気がぶり返して、10日ほど、まともに家から出られない日が続いた。当然、仕事にも行けず、そのことがまた新たなプレッシャーとなり、負のループから抜け出すのは困難極まりなかった。

なんとか自力で這い上がり、約二週間ぶりか、職場へ顔を出し、数時間だが仕事を務める事が出来た。驚くほど手の震えは止まらず続いたが、何てことはない、もはや10年にもなる仕事だから、与えられた業務をこなし、また自ら仕事を見つけて二つ三つこなす事は容易く、働く能力のほぼ落ちていないことを認識し、家路に着いた。
その夜は頭の中が仕事のことでいっぱいになり、あれはこうやろう、これはこんな内容にしよう、そんな事が無限に湧いて、朝方まで寝付けなかった。

そんな日々だったから、能動的に休みだと決めて休むのは、なんだか新鮮だ。住居から15分も歩けば、こんな地方都市の一番の中心街へ出られる。活気があり、ゴミゴミとして、埃立ち、高層ビルが乱立している。

軍パンにTシャツ、手ぶらでやってきた僕はいつものコーヒー屋へ。店内では飲まず、カップを持って外のベンチに座る。
右のカーゴポケットには志賀直哉の短編集。左のカーゴポケットにはコンパクトカメラが入っている。必要最小限の持ち物だ。

純文学は良い。タイムマシーンの様だし、最も日本人が古来から得意としていたであろう、非常に細やかな感情の触れ方や機微を、最小限の言葉で表現している。
エンターテインメントでは無いのだ。人間の息づかいが聞こえる、人生の哲学や教え、生命、そのものが込められている。

それらと、自分が表現手段として選んだ、写真とに通じる部分もある。何かを媒介して、客観的な他者に訴え掛けるという意味では、文学は表現であり、写真もまた文学的要素を大いにはらんでいる。

あの人の言った、写真を吹っ切るとはどのような感覚だろう。僕は僕の写真に、無駄を省くことばかり考えていたが、それでは物足りないのか。
足して足して、自分というものをむしろ全て絞り出して与えて、そしてもう一度、本当に自分にとって、不必要と思えるものだけを省いていく。ちっぽけな固定観念を一度木っ端微塵に破壊する事。それが次のステップなのかも知れない。

ラテを半分ほど飲み干したところで、この文章はここまで書けた。約15分ほどか。そろそろ終いにしよう。

右肩を揺らすように春の強い風が吹き抜けていく。どこからか管楽器のバンド演奏が聞こえる。駅ビル中央の大きな階段のオブジェには大量の水が流れ続け、傾いた夕日がその水面に、躍り狂うように激しく輝いている。眩しすぎて、それが求める写真にはならない事を僕は分かっていた。観光客はしきりに、水面にデジタルカメラを向けて笑顔を溢れさせていた。



2016年5月13日金曜日

Diary. 126 煙りの中

漱石も鷗外も、坂口安吾も面白い。
随筆が面白いが、小説でも、何か作家のリアリティや、生くさい匂いのするものは面白い。
その中にのめり込むことが出来る。

草枕、随筆集、堕落論など読み終えた。桜の森の花の下は、正に傑作だった。これほど興奮させられたものはなかった。神がかっているし、また狂気じみている。そして途中、目が覚めるほど美しい。美しい哀しみに満ちていて心をさらわれる。

都会はうるさい。田舎は物足りない。家はあれこれ揃いすぎていて、書にふけるには逆に不便だ。気が散る。テレビを付ける。物音が気になる。
よって止むを得ず外に出るが、外ももちろんうるさい。店もうるさい。繁盛せず静かな店は魅力が薄く、気持ちが乗らない。居心地の良い店は人気で人が多く騒がしい。
居心地が良くて、店も良いのに、客が少ないところを見つけなければならない。
これはなかなかない。本当に売れていない不味いのはすぐ見つかるが、いわゆる隠れた良い店は、滅多にない。あってもだいたいは、店主がそれを自覚していて鼻を高くしていて、その表情が鼻に着く。

とにかく、コーヒーがそこそこ旨くて、適当に静かで適当に騒がしくて、人のいないカフェがいい。まずないが、やっと一つ見つけた。平日なら、ほぼ理想的だ。

コーヒー二杯で二時間は居れる。たまにBGMがあまりに陳腐で気が散るが、我慢出来なくはない。店員も当たり障りなく良い。
キャップを後ろ向きに被り、シャツにジーンズでリュックを背負ったニセモノのヒッピーが、ラテを飲みながら古い文学に読み耽る。

隣は花屋だ。頗る賑わいがない。客の居るのを見たことが無い。そのまた隣はヘアサロン。こちらは平日でもパラパラと客が来る。
エスプレッソと草花と、ヘアケアの人工的な芳香が、店員が動くときの気流に乗って気まぐれに届く。この不明瞭さが良い。僕にとって都合のいい店は、商売が長く続かないと思う。

この時代のものを読めば読むほど、日本人らしさを知る気がする。今の日本人は、ひどく無責任で、見境がなく、また何者でも無い、そう思えてならない。
外から来たものを取り入れることしかしない。内から生み出る人間味や、リアリティがない。生まれた時からそんな環境だから、仕方が無いのは分かる。
だから、四十を前に自己というものに、少し興味を持ち始めるのだろう。何の疑問もなく洋服を着て、何の疑問もなく西洋式の音楽を聞き、横文字に囲まれ、クリスマスを祝い、洋食を食べる。日本はどこにあるのだろう。それとも、これこそが今の真の日本らしさなのだろうか。それをすぐには了解が出来ない。

仕事柄、ファッション雑誌に一部自分が載った。違和感が強かったが、そこに並ぶ同じく同じ業界に身を置く同世代のファッションを見る。
批評するつもりはないが、僕とは違う気がした。会って話してみなければ分からないが、裸じゃないなと思った。皆、しっかりと服を着ているのだ。
僕は服を着ても着なくてもどちらでも良い。そこにアイデンティティは無い。裸で自己が表現出来るか、その事しか、いつからか考えなくなった。物足りなさや、物寂しさは無いのだ。服が全て消え去ってもなんとも思わない。またジーパンとTシャツが買えたらそれで足りる。

日本はどこへ消えたのか。消えかけているのか。ロウソクの火の後にしばらく漂う、薄い煙りを必死で理解しようと努めるように、僕は消えかけの自分らしさを探している。









2016年5月7日土曜日

Diary. 125 闇の中の星

鷗外の随筆は思いの外難解で、同じところを何度も何度も往復してみたり、
放っておいてどんどん先へ読み進めたりと、脳細胞を苦しめて刺激する。

するといずれ文字は文字の意味をなさなくなる。単語は単語の存在感を弱める。何が言いたいのか、
その空気感だけが、活字という簡潔な要素を伝って脳に届き始める。
一種のトランス状態、酩酊とでも言おうか、意味はわからないが、感情が言葉に乗って伝わり始めるのである。

読み終わったら、もう一度始めから読み直そうと思っているから、尚更気楽に進められる。
こう思える書は少ない。だいたいが、一度読み干せばしばらくは要らない。
重要なものは、いやでも思い出して、棚から引っ張り出して、二回目が始まる。だいたいが、最初ほどの味が残っておらず、薄口で物足りないことが多いのだけど。
内容の濃いものは、また相性の良いものは、何度でも味がある。まるで茶葉を何度も違う温度で入れて、味が変わるのを奇妙に思う事に似ている。

さて鷗外は思いの外人間的だった。一般の雑念を持っている。小説はあんなにも無駄がなく澄んでいるのに、作者と作品とにはズレが生じる事が、常なのかと知らされた気持ちがする。

僕の作品はどうだろう。そのギャップをもっと広げていけるだろうか。
写真はもっと、僕から遠く離れて成り立てば良い。そう願っている。遠く解き放ったような、
新星の爆発のようなエネルギーを、生にも写真にも求めている。
鷗外の随筆から、そんな感情を見つけた。



2016年5月5日木曜日

Diary. 124 道の先



一応は二度目の個展が終わりました。皆様ありがとうございました。

新しく感じることや、気付くことの多い展示になりました。そして、僕はまだ撮り続けていくのだと、
改めて気付かされた機会にもなりました。僕の呪縛は、より一層心身に深い所へまで入り込み、絡みついていると思いました。そうして、生きていくのだと思いました。

たまたま来られた美術関連の講師をされてる方が、僕の写真を見て下さり、まだ吹っ切れ方が足りないと仰ったそうです。
僕も思います。まだまだ、軟弱なのです。僕も、写真も。
そして尊敬する先輩からは、誰かに気を使いながら写真をやっているように見える、と言われました。
なるほど、これは鋭い、僕は僕の今までの写真を壊さなければいけないと感じています。圧倒的に、何かが不足しているのです。

それはそのまま僕自身に言えることなのです。僕は足りてない、覚悟も、努力も。こんな簡単な言葉で陳腐に聞こえるくらいの、その程度の存在なのです。

今僕はなぜここに居るのか、これが本当に僕なのか、なぜカメラを持つのか、なぜ生かされているのか。
疑問は消えては現れ、消えては現れて僕を惑わせます。そうして、また同じように僕は答えを求めるのです。
その道はちょっとやそっとの覚悟では歩けませんよ。言われて、我に帰りました。覚悟は、いずれ備わるのでしょうか。それとも、ずっと孤独なのでしょうか。路傍に彷徨うのでしょうか。

今日という日はとても素晴らしい。そう思える事は稀です。だから、今日という日は感謝に値します。そして二度とは訪れない。
僕は前を向いて、書を持って、僕の選ぶ道を行く。
それは誰に迷惑がかかろうとも、決して逸れることなど出来ない、
選ばされた道。行くと決めたのは、紛れもなく自身。その先に星の明かりほどの未来すら待っているか、何の保証も無い、尊い無の道。





2016年4月27日水曜日

Diary. 123 本の埃


大阪都心部の少し歩いた駅続きの路地に、今も古書街が残っている。
とても綺麗に掃除が行き届いたこの通路には、10店舗ほどの古書店が並んで入り、時を止めている。
と言うより、時計の動きをゆっくりと感じるような、田舎に帰ったようなのんびりした空気が、いつもそこにある。
その内の一つに、たまにふらりと立ち寄る。洋書、邦書、歴史小説、心理、哲学、戦争、宗教。狭い店内には広いジャンルの、魅力的で知らない本が、
順々に至って普通に並べてある。

ある時、店内で少しスマートフォンを触っていると、60歳前後に見える店主らしき男性に、すみません、店の外でお願い出来ますか?と、当たり障りのない物腰で告げられた。
あ、すみません。さっと外に出て用事を済ませ、スマートフォンを仕舞い、店に戻った。
冷静に考えれば、店内でスマートフォンを操作してはいけない理由を、お互い即答する事は出来ないだろう。
これは言葉とか、決まりとか、そう言うものではなく、気持ちのようなものだ。店にも客にも、大人として最低限の礼儀を持って向き合おう、そんな日本人らしさが、まだこの古書街には生き残っている。指摘を受けて、むしろ心地が良いのだ。

ある日、またふらりと立ち寄って森鷗外の随筆集を手に取った。三百八十円。文庫本は現代的にぴったりとビニールで封じられているから、表紙の簡単な説明からしか内容を推測出来ない。
でも、古書なんてそれで良い。

決めて、片手に持ったままじっくり店内を見て回って、よし、とレジへ行った。

ありがとうございます。
ゆったりしたストライプのシャツに、テニス風の白いニットベストを着た店主。身なりからは世代や、生きてきた時代の背景が、うっすらと垣間見える。古着のアーミーシャツを着てジーパンを穿き、無意味に大きなリュックを背負った、ニセモノのヒッピーみたいな僕に、店主は丁寧に対応した。

袋は結構です。そう言うと、
ではビニールも外しておきましょうか?と。今すぐにでも読み始めたい気持ちを悟られたかの様に、優しい笑顔で裸の本を僕へ手渡した。
ありがとうございます。互いに礼をして店を出る。文庫はアーミーシャツの胸ポケットに、ぴったりと収まった。

物の売買はある種文化的だ。貨幣価値が人々に根付くまで、物と物のやりとりはもっと人間的で、体温のあるものであったに違いない。
この古本屋からは、まだ体温を感じる。

地下鉄に乗り込み、少し温まった本を胸ポケットから取り出して、二駅分の時間、偉人の随筆に入り込む。
窓に流れる黒い景色はいよいよ意味を無くし、代わりに、見た事もない景色を脳細胞は想像させる。次の駅でまた胸ポケットに本を仕舞い、職場へと向かった。


2016年4月21日木曜日

Diary. 122 消えた雨

コーヒーチェーン店の窓際のカウンターに座り、外を眺めている。
朝から降り続いていた雨は夜になってようやく止んで、
今は赤や黄色のテールランプがアスファルトを輝かせて、
まるで安っぽい首飾りのように鈍く光っている。

暑くも寒くもない、早くも遅くもない、中途半端な夜。半端者な僕に追い打ちをかけるような、気怠さいっぱいの空気。大阪、都会の夜に
落ち着いてコーヒーを飲める場所なんてないのだ。
僕が求める静けさ、それは叶わない。どこにだって物音や、人の気配や、埃や排気ガスの不快な匂いが漂っているのだから。

どうして今僕はここにいるのだろう。いつも決まってそんな事を考える。
僕は僕の意思でここに来たけど、僕の意思でここに居続けているのではない。
行き場のない身勝手な言い分と我儘を、いつだってこの中に飲み込んで、吐き出すのを堪えている。

タクシーが流れていく。トラックが流れていく。スーツの人が、リュックの人が、
どこかへ向かって歩んでいく。皆それぞれに理由があり、僕の視界に映り込む。

なぜ、写真を撮るのだろう。僕は撮らされているに過ぎない。そんな思考の往復をもう何度繰り返しただろう。
なぜ生きているのだろう。生かされているのだろうか。答えが知りたいのではないけれど、いつかはその答えを
否応なく突き付けられる日が来るのだ、それはなんとなく分かっている。

誰かが消えた時、きっと僕も消える。
そして今度は違う誰かが僕になって、また写真を撮らされる。

それはずっと、繰り返される。


2016年4月11日月曜日

Diary. 121 個展



堀田展行 写真展 「街に帰る。」


場所:「中崎町 zazie hair

期間:2016年4月12日(火)〜5月1日(日)
※4月23日土曜日は終日在廊します。あとは平日も何日か。

入場無料 月曜、第三火曜休日

平日 11時から20時
土日祝 10時から19時


カメラを持って街を歩くとき、

僕は永遠に迷子になったような気持ちになる。

そしてこの街のどこかに、僕が帰るべき本当の家が、あるのではないかと思うのです。


 そんな放浪の日々を、約一年半続けたものをまとめてみました。
もちろん、現在もそれは続いており、未現像のフィルムは山のように
溜まる一方なのですが。



 今回は初めて、全て全紙サイズでプリントしました。かなり大きいです。
作品は販売もします。どなたか気に入られたら宜しくお願い致します。



    昔から知り合いの可愛らしいヘアサロンの、入り口手前が小さな
ギャラリースペースになっています。誰でも気軽にご覧頂けます。
ぜひ、ふらっと立ち寄って下さい。

    それでは、会場で僕か写真がお待ちしております。






2016年3月24日木曜日

Diary. 120 帰り道




4/12からの個展が近づいています。場所は中崎町、昔からお世話になっている、
ヘアサロンのzazie hairさんのギャラリースペースにて、展示させてもらいます。

昨年は色々とありました。今年に入ってからも、まだ全快とは言えません。
悩み多き日々は写真に一体どんな影響を与えるのでしょうか。むしろ、
そんなことで写真は変わらない強さを、始めから備えているのかも
知れません。僕は所詮、写真に撮らされ、写真に生かされている。
そんな風にも思います。

二度目の個展で、初めて街のシリーズをまとめてお披露目出来ることになりました。
これは、素直に嬉しく思っています。約一年半、撮りためた中からひとまず
まとめました。今もなお、撮り続けているシリーズなので、きっとこれからも、
終わりはないと思います。

前回と違って場所も近いですし、期間も長いので、たくさんの方と出会えたらいいなと
思っています。

僕はなんとか、今日も生きています。



2016年2月12日金曜日

Diary. 119 重力



 やっかいな病から少しだけ回復をし、昨年末から、再び仕事へ。

 最初は満足なパフォーマンスを出せず。12月60%、負け。1月100%、報われず。
2月80%、苦戦中、そんな復帰具合。

 写真は全然撮っていない。それどころじゃない感じ。すでに撮り終えた未現像の
フィルムが山ほどまだ残っているので、それを現像、プリントに出すのを見計らっている
ところ。
 だから、撮らなくても、個展には充分作品が出揃う。でも、たまに撮りたくはなる。

 仕事は快調だが、体がついてこないと、俺も所詮こんなもんかと、大した事無いなと、
嫌な気分になる。しかし性格上、笑って過ごしてしまう。だから病むんだろうな、このブログが。笑

 毒を吐く場所がないから、こうしてネットに依存するのだろう。良い事だとは思わない。


 朝、起きると、体がグッと思い。重力が三倍くらいに感じて、とたんに眩暈や、強い恐怖感がある。

 まだ、呪いは解けていないのだ。ゆっくり付き合うしかない。

 体が重さを感じるのも、生きている証。これすらなくなったら、もう天も地も分からないだろう。

 とりあえず歩く。T-MAXを試しに10本くらい買おうか。どうせすぐに撮り終わってしまう。

 カメラは片手にGR1sが一つあればいい。他に今は要らない。写ればそれでいい。

 どっかの誰かが、目で見てカッコ良くないものは、写真にしてもカッコ良くないと言った。
今思えば、これは大きな間違いだ。

 目に見えないものを撮るから写真なんだ。少なくとも、僕はそういう事がしたいのだと、

 今は気が付いている。




2016年2月5日金曜日

Diary. 118 匿名



 僕も、あなたも、一体どこへ行こうというのだろう。

 僕は一体何がしたいのか。まったく分からない。

 生きる意味を見失ったとき、 人はどうしてそれでも生きようと決めるのだろう。
その先、自分を納得させる何かが待ち受けているなんて、誰にも見えはしないのに。

 目に見えるものなんて、見えていないのと同じこと。目に見えない事の方が、
世の中で重要度が高い。そんな風に思う。

 思いも、願いも、歴史も、世界だって、全て目には見えない。目はただの道具だ。

 目という道具とカメラという道具を使って、僕は見えない家を探している。

 見つかる気はしない。これは呪いのようなものだから。それでも僕はカメラとフィルムが
頭から離れない。わずかなお金はフィルムとプリントに変わる。それだけのこと。

 いつか、赤い繭になれると信じているのか。愚かだ。足は、まだほつれてこない。


2016年2月1日月曜日

Diary. 117 記憶喪失



 世界を見ようとするとき、僕には白と黒にしか見えない。

 カメラを通してしか、世界を感じることが出来ない。僕は生かされている。

 報われない努力。楽観的な毎日。自分を偽る事でしか、前には進めない。

 4月には個展がひかえている。それは、楽しみでもある。


 僕はどこへ行くのだろう。行きたいところはあるけれど、それがどこにあるのか分からない。

 会いたい人もいるけれど、会えるのかどうか分からない。


  僕は僕を知らなさ過ぎるのだと思う。永遠に分かる気がしない。