急に病気がぶり返して、10日ほど、まともに家から出られない日が続いた。当然、仕事にも行けず、そのことがまた新たなプレッシャーとなり、負のループから抜け出すのは困難極まりなかった。
なんとか自力で這い上がり、約二週間ぶりか、職場へ顔を出し、数時間だが仕事を務める事が出来た。驚くほど手の震えは止まらず続いたが、何てことはない、もはや10年にもなる仕事だから、与えられた業務をこなし、また自ら仕事を見つけて二つ三つこなす事は容易く、働く能力のほぼ落ちていないことを認識し、家路に着いた。
その夜は頭の中が仕事のことでいっぱいになり、あれはこうやろう、これはこんな内容にしよう、そんな事が無限に湧いて、朝方まで寝付けなかった。
そんな日々だったから、能動的に休みだと決めて休むのは、なんだか新鮮だ。住居から15分も歩けば、こんな地方都市の一番の中心街へ出られる。活気があり、ゴミゴミとして、埃立ち、高層ビルが乱立している。
軍パンにTシャツ、手ぶらでやってきた僕はいつものコーヒー屋へ。店内では飲まず、カップを持って外のベンチに座る。
右のカーゴポケットには志賀直哉の短編集。左のカーゴポケットにはコンパクトカメラが入っている。必要最小限の持ち物だ。
純文学は良い。タイムマシーンの様だし、最も日本人が古来から得意としていたであろう、非常に細やかな感情の触れ方や機微を、最小限の言葉で表現している。
エンターテインメントでは無いのだ。人間の息づかいが聞こえる、人生の哲学や教え、生命、そのものが込められている。
それらと、自分が表現手段として選んだ、写真とに通じる部分もある。何かを媒介して、客観的な他者に訴え掛けるという意味では、文学は表現であり、写真もまた文学的要素を大いにはらんでいる。
あの人の言った、写真を吹っ切るとはどのような感覚だろう。僕は僕の写真に、無駄を省くことばかり考えていたが、それでは物足りないのか。
足して足して、自分というものをむしろ全て絞り出して与えて、そしてもう一度、本当に自分にとって、不必要と思えるものだけを省いていく。ちっぽけな固定観念を一度木っ端微塵に破壊する事。それが次のステップなのかも知れない。
ラテを半分ほど飲み干したところで、この文章はここまで書けた。約15分ほどか。そろそろ終いにしよう。
右肩を揺らすように春の強い風が吹き抜けていく。どこからか管楽器のバンド演奏が聞こえる。駅ビル中央の大きな階段のオブジェには大量の水が流れ続け、傾いた夕日がその水面に、躍り狂うように激しく輝いている。眩しすぎて、それが求める写真にはならない事を僕は分かっていた。観光客はしきりに、水面にデジタルカメラを向けて笑顔を溢れさせていた。