2015年12月29日火曜日

Diary. 116 空白と闇の海




随分と長く、正確には8ヶ月か、闇の海を溺れそうになりながら、
泳いだり、船を漕いでみたり、島に漂着したり、そんな毎日が
まるで永遠という途方もなく長く感じる言葉に締め付けられるかのように、
僕は人生で初めて味わう人生の苦渋を飲み込んだ。

正確には、今も口の中いっぱいに苦味がこびり付いて剥がれない。
表面的に明るくても、楽しく笑顔が生まれても、まだ闇は僕を逃すつもりは
無いらしい。混乱といえば言い訳にしか聞こえない。
八方塞がりの穴倉の中から、臆病に片手を手首あたりまで出してみては
すぐに引っ込める、そんなビクビクと怯えた自分を隠して繕いながら、
また仕事に復帰する格闘を始めた。自分の意思。もちろんそう。ただ、
他人に少なからず操作されない意思なんて存在しない。僕は、
いつだって、僕の人生を生かされている。多分、本当に大切な人でも、
むやみやたらに傷付けながらわがままを通している。

悪いと思う気持ちはある。ただ、その時には気付けない愚か者でもある。
僕は闇を足にまとわりつけて引きずったまま、闇の狭間を求めて
街を歩き、カメラで暴こうとしている。足は揺れている。地面は
大きくなだらかにかつ凶暴に歪んでいる。僕は履き潰したブーツで
街の闇を歩く。

家を探している。いつか赤い繭になれればいいのに。
その時僕は初めて、街に還るのだ。




2015年8月17日月曜日

Diary. 115 見るもの見えないもの





 そこそこ長く生きてきたのに、まさかこんな状態に陥ってしまい、正直毎日戸惑っている。
というより、混乱している。混乱と、朦朧と、高揚と、消沈と、目まぐるしく交錯している。
おかげで恩師にも多大な迷惑を掛け、もう踏んだり蹴ったりだ。自分も被害者だという
開き直りたい内心と、きっと、それでも必ず僕が悪いのだと自責する思いが相剋し、
冷静になることは難しい。今は、書に道を探している。

 写真は、もはや最近は全く撮りに行っていない。過去の撮影を振り返り、スキャンしたり、
見直したりするのも稀で、わずかである。活字、活字、今は抽象的表現の糸口ですら、活字の
中に求めている。

 突然、激しい雨が降り出した。カメラを取り出し、ベランダから数枚撮る。それで、
気が落ち着いてしまう。そんな程度。ソファ、ベランダ、風呂場、トイレ、たまに徒歩5分圏内、
そんな程度。

 どうやら自我が迷子になっている。自我と自我が、出口の見えない議論をしている。



2015年8月15日土曜日

Diary. 114 撃ち抜かれて





 その時僕は草原に立っていて、時刻は昼間、天気は悪く、とても曇っていて、
激しい風が体を揺らすほどだった。

 足を肩幅ほどの広さに開き、しっかりと立って、両手をぐっと前へ伸ばして本を
しっかりと開いて持っていた。その恐怖と緊張感で、僕の全身にはかなりの力が入り、
硬直していた。
 僕の構えた書物の前方に、古い日本の警官のような、軍服の様なものを着た男が立ち、こちらへ
銃を構えている。今にも僕を撃とうとしているのが分かる。僕は恐ろしさよりも、
何かを守りきりたい気持ちが強くなり、やがて撃たれることがちっとも
恐くなくなった。その瞬間、すでに空中へと放たれた銃弾は僕の握りしめた書の
ほぼ中心を貫通し、続けて僕の体の中心も突き抜けて、僕は勢いよく後ろへ吹き飛んだ。
 その時に感じたのは、寂しさでも、苦痛でも、後悔でもなくて、本当に驚くほどおだやかな、
満足感だった。これで良かったんだ。風は弱まっていて、心地よく吹き抜けた。

 いつものベッドの左脇で目が覚めると、全身と後頭部が汗でひどく湿っていた。
最近よく夢を見るが、ほとんど覚えていない。ほとんど、こういった類、それが、
床についてから朝まで、きっとずっと続いている。そういう日が続く。

 今何時か分からない闇夜の中で、ああ、銃はカメラだなと思った。書物は・・、
書物はなんだろうか。知識か、抵抗か、あるいは過去、ではなくて、未来か。

 信頼を寄せていた人を失望させ、家族の様に思えと言ってくれた人に他人と言わせ、
つまり当たり前の事を当たり前の様に言われて、僕は当たり前の様に今日も生きている。
それも夢。とにかく、一日が長い。夏はてっぺんを過ぎたけど、今年は長くなりそうだ。



2015年8月9日日曜日

Diary. 113 隙間から手を伸ばして




 最近よく感じるのは、心も体も頭も、ただの容れ物のようなものに過ぎなくて、
自分という存在は全く固まった実態はなく、ただその容れ物の周りを、靄みたいに、
ぼんやりと漂っているような感覚であるということ。突然、強い風が吹き付けてきたなら、
簡単に吹き飛んで消えてしまうような、そんな危うい、とても存在とは呼べないほどの
頼りないものが、ああ、自分なんだなと思う。

 ふと右手を見つめてみても、その手で体を撫でてさすってみても、それが自分であるだなんて
僕は全く実感が持てない。誰かがそう呼ぶことはあっても、僕が実はどこにあるのか、
僕には分からない。写真を撮って残すと、確かに僕がボタンを押したという記録だけが残る。
自分の存在を確かめようとして、写真を撮っているのかも知れない。そんなもの、考えてみれば、
別に欲しくなんてないのに。僕は欲しくもない確証のために、写真を撮っているのかも知れない。
 要らないものですら欲しがるほどに、僕は本能的に、何かに飢えているのかも知れない。





2015年8月5日水曜日

Diary. 112 塗り変わる過去の記憶




 再び迷い込んでしまった僕は、かなり悩み続けた挙句、そのどうも輝いて見える
過去というやつの現状を、確かめてみようと思った。過去は明るく輝いて感じられ、
また未来はすぐ目の先でさえも闇に包まれているように感じたから。事実が知りたかった。
 結果、僕の知っている過去はもはや跡形もなく、さらに古びたものに塗り替えられていた。
そこに輝きや光など、もうなかったのだ。まるで夢のように、ふっと消えて、夢だったかのように、
そこにはなんの面白みもない景色がただ呆然と広がっていた。過去はそこに無言で横たわっていた。

 過去も未来も、もう分からなくなった。代わりに、今が今として、間違いではないことが
分かった。それは僕にとっては、ちょっとした発見になった。

 結局、今を撮り続けるしかない。今を見つめ続けるしかない。それが過去になり、
いつか未来になるのだろう、きっと。




2015年7月28日火曜日

Diary. 111 選ばれた時代




 最近は読書にある程度の時間が避けるので、なるべく読むようにしている。
また、今の現状から抜け出す為にも、本がその力や栄養素になり得ると、思うから
でもある。実際、ご存知の方もおられると思うが、今は頭(心)が軽くエラーを起こして
いる状態だから、おそらく大きな間違いはなく、読書は僕の為になっている。

 戦後から70年代くらいまでの、日本人が書いた本が中心で、また特に面白いと
感じる。発想がシンプルで、力が込められており、アイデンティティがあり、深みがある。
写真にしても音楽にしても、そう感じることが多い。もっとも、僕の読書量や知識量なんて、
全く大したことは無いのだけれど。

 ふと、今僕がこの時代に生まれたことについて考える。必然性というか、運命というか。
どの時代に生まれたかったか、選んでみろともし言われても、特にない。きっと、今知り合えた
たくさんの仲間たちや先輩たちのことを思うと、この時代に生まれて結果的に良かったのだと
思えてくる。

 インスタグラムというのをやっている。昔からは考えられなかった道具だろう。手元から
一瞬にして、写真を世界中に公表し、いつでも世界中の誰かとメッセージの交換が出来る。

 先日も知らないアメリカ人からメッセージが届いた。僕が使っている古いフィルムカメラの
一つ、makina67について。このカメラは外国では特に珍しいらしく、先日もオーストラリアの
アーティストから質問があった。もし日本に来たら、連絡くれれば売ってる場所を一緒に
探してあげるよ、なんて、言ってあげるととても喜ばれる。もちろん、相手を見て決めているけど。

 乏しい知識を駆使して英文を作り、英語が堪能な友人に添削をしてもらい、メッセージを返す。
ちなみに今回の添削結果は70点くらいかな。まだまだ全くの勉強不足。これが会話となると、
もう一段ハードルが上がるから言語は難しい。でも、面白い。

 質問の内容は、makina67と他の同クラスのフィルムカメラとの違いは?というもの。
日本人でも外国人でも、考えることは一緒なんだなと思い、少しだけ世界を身近に感じる。
そんなもの、使ってみたら一番よく分かるよと言ってやりたいけど、ここは親切に自分が思う
違いを伝えてあげた。でもその方が、なんだか嘘っぽくも感じた。

 結局は道具だし、違いなんて、あるけれども無いに等しい。ただ、写真を撮るだけなのだから。
でも確かに、同じような悩みを僕も数年前には抱えていたのも事実。時代が変わっても、
人間そのものは、以外と大きく変化していないのかも知れない。

 もうすぐ7月も終わる。今年の前半は波乱続きだ。仕事も軌道に乗せていかなきゃいけないし、
またそのうち次のコンテストの締め切りも迫ってくる。次はどの道具を使い、どんな表現に
まとめるのか、同時に進めていきたい。この時代に生まれたからこその、人生の選び方、
進め方。もう折り返しは過ぎているだろうから、月並みだけど、後悔しないようにやりたい。
少しくらい周りに迷惑はかかっても、らしさにはこだわりたいと、今は思っている。





2015年7月25日土曜日

Diary. 110 結末





 休日の昼間、突然ケータイが鳴って、知らない番号が表示された。願っていた場所からの
連絡かも知れないと思い、急いで取ると、願いとは真逆の言葉が待っていた。

「東京から着払いの荷物が届いています。」

 初挑戦だったビッグコンテストへの応募は、この瞬間にあっけなく終わった。選外。

 丁寧に梱包されたフォトブック。返却する作品にもちゃんと敬意を払ってくれている
ようで、好印象を覚えた。

 約二ヶ月前、少し興奮しながら、初めて自分の作品を一冊にまとめた。締め切り直前、
最後は清々しい気持ちで東京へと送った。その、つたないフォトブック。

 久しぶりに開いてみると、すぐに思った。「これでは、駄目だ。」

 元来お調子者だから、作品をまとめて送った直後などは、これは少なくとも佳作には
ひっかかるんじゃないか、なんて、強くは思っていなくとも、根拠のない自信が確かにあった。
 しかし、こうしていくらかの時間が経って、再び自分の作品と向き合うと、なんとも極めて
頼りなく感じた。力強さを感じない。全く物足りないのだ。俺はこんなもんか。すぐに閉じて、
ちょっとふてくされた。これからどうしよう。いや、まだ始まったばかりだろう。

 少し経って、もう一度しっかり見直そうと考えた。約半年がかりで撮り溜めた数百枚、
その中から選んだ44枚のモノクロプリント。一枚一枚、思い出を振り返るように確かめていく。
すると、さっきとはまた違った感情が生まれた。

 すごく良いものも、中にはある。もちろん、他人に評価されるかどうかは分からない。
しかし、誰に対してでも、これは良い写真だと胸を張って言えそうなものが、少なくとも
数枚はあると思ったのだ。
 もちろん、逆もある。どうしてこれを44枚に含めたのか、枚数を稼ぎたいだけで、全く
要らないカットを組み込んでしまったと、大きく反省するものがたくさんあった。

 プリントを直接貼り付けた台紙の、角がことごとく潰れて曲がっていた。これはきっと、
審査員が念入りに僕の作品を、何回も見たからに違いない。なんて、飛び切り前向きに
考えてみたら、一人で笑えてきた。おそらく、最後の最後まで佳作に入れるかどうか、
審査員は悩んだに違いない。と言うことは、この調子だと来年は絶対佳作以上だな、
間違いはない。そんなくだらない妄想を頭でつぶやいて、自分を労った。

 もちろん、そんなはずはない訳で、単に重みで台紙が傾いて、テーブルや床にぶつかりまくったから
曲がっただけのことなのだ。でも、そうでも思ってやりたい気持ちになった。僕に対してではなく、
こうして存在してくれる写真に対して、そう感じた。作品は、作品になった瞬間、僕の手から
離れるのだろう。不思議な感覚だった。

 おのずと、これから僕が撮ろうと思うものが定まった。コンテストで選ばれても駄目でも、
結果が出ることで、次の行き先が少し見えてくるだろうと言うことは、なんとなく気付いていた。
実際にその通りだった。迷いがなくなって、ホッとした。そして、生きようと思った。

 相変わらず僕はダメダメで、全くの落ちこぼれ。幸運にも、生まれながらに授かった
そこそこの人柄だけで、ここまでなんとか生きてこれているようなもの。そんなやつが、
写真なんて余計なものを始めたものだから、さぞ神様はお怒りだろう。それとも、
もう諦めてくれただろうか。

 僕の写真が今のスタンスになって、初めての夏が来た。この強烈な光線がモノクロネガに
どう作用して、どんなプリントが生まれるのか、楽しみではある。

 不器用に生きながら、また一枚一枚と記録を残していく、その静かな再出発になった。





2015年7月23日木曜日

Diary. 109 再び街へ































 どうしてこんなにも街を撮るようになったのかと言うと、
気がつくと撮り続けていたというのが一つと、撮りたい意思があるというのが
一つ、つまり、無意識と意識の両方が理由にある。

 6、7年写真を撮ってきて、人や、服や、景色や、花や、いろいろと撮ってきたけれど、
未だに気がつくとカメラを向けてしまっている、それが街だ。無意識的に
撮り続けているし、つまり、よく分からない何かに魅了されつづけているということ
なんだと思う。

 意識的に撮るようになったのは、そんな無意識の自分に気付いてからで、
そこに何があるのか考えているうちに、なるほど、僕は何かを探してさまよって、
もがいているからなのだと思うようになった。街には、街以上のものがあるし、
写るし、また自分の気持ちみたいなものも反映される。僕はどこかへ帰りたい気持ちと、
何かを壊したい気持ちを、街を撮るという行為に知らずのうちに込め始めていたのでは
ないかと思う。

 僕は多分、人にしか興味がない。まわりの付属はどうでもいい。目にすら入らないことも
たくさんある。街には、この同じ時代を生きるさまざまな人間が写る。正確には、
人間の思いや、意図や、感情や、実際に物体としての人物そのものも、写ることがある。

 そして何より街には空気が漂っている。大阪だからとか、そんな固有名詞は僕には
関係なくて、今、こうして、たまたま縁もなく住んでいる街、それがたまたま大阪という
地名だっただけで、どの街にも間違いなく、空気が漂っている。目には見えないかも
しれないけど、たしかに肌とか、呼吸から感じ取れる空気なのだ。僕は偶然この街に
今いるから、今いるこの街を撮りたいと強く思う。

 カメラを持って街をうろつく時、僕は永遠に迷子になったような気持ちになる。
しかもきっと、この迷子にはもう帰る家がない。だから、街に帰ろうとしているのだと
思う。そしてどこか入り口を探して、ファインダーを覗き、その記録としてシャッターを
切っているのだと思う。自分がさまよい、街に帰ろうとした、その記録を。

 いつまでそんな記録を残し続けるのだろう。誰のためにもならないだろうに。でも、
迷子は自分が迷子であることに気付きながら、どこか認めたくなくて、明日もあさっても、
カメラを片手にまた街を彷徨うのだと思う。いつか本当の、帰る場所が見つかるんじゃ
ないかって、心のどこかでほんの少しだけ、信じているのだと思う。




2015年7月22日水曜日

Diary. 108 咲かない蕾





 机上の花。茎を切り、葉を落として、尚も水を吸い上げていた。

 でも、一向に開かない、咲かない蕾。

 これもまた一つの生命。人間のちっぽけな観念で捉えて、
悲しみなど表するのは身勝手な幻想に過ぎない。生きることは、
容易く無い。

 人は呼吸を止めた時、終わるのだろうか。それとも、諦めた時に
終わるのだろうか。終わりなど無いのか。

 勢いづいたはずの七月は軽くつまずいている。見計らったかのように
梅雨が明け、暑さが押し寄せてくる。唯一の武器だと思ったカメラも
さほど手に付かない。過去の溜まったネガフィルムを一枚、また一枚と繰っては
繰り返している。

 過去に未来を見出そうとする自分がいる。




2015年6月23日火曜日

Diary. 107 風向き









































なかなか思う様にはいきません。風向きが変わってきたのか、決して悪くはないのですが、
スムーズに事が運ばないのが人生の様です。

写真は特にペースを上げる事もなく、ゆっくりと進めています。やりたい事は決まっているので、
あとはその仕上げ方といいますか、どんな作り方をしていくのか、道具のマッチングなどを
確かめているところです。全く同じ事を続けても飽きてしまうので、継続と変化を自分の中で
上手くコントロール、していきたいところです。

自分自身はなかなか完璧にコントロール、というわけにいきません。焦っても仕方がないのですが。

ある程度時間に委ねる事も必要なのかも知れません。掴み所のない不安が多少あります。

もっと視界がクリアに早くなればいいのに。



2015年6月16日火曜日

Diary. 106 夢から醒めて


































 年下でも、知的で熱心で勤勉で、尊敬できる人たちがたくさんいることが、
とてもありがたいなと思う。

 僕みたいな中途半端とも、真摯に向き合って時間を割いてもらえる事に心から感謝する。

 さて、僕はそろそろ闇を克服して、再び陽の差す社会で地道に働く事が出来るだろうか。

 弱気な自分を無理やりでもねじ伏せて、一歩ずつでも前へ向かわないといけない。
そんな時期が近づいていると感じるから。それがどういう人生をまた今後に繋げていくのか、
それはやってみないと分からないけれども。恐れず、歩みたいとは思う。

 最近よく夢を見る。残念ながら、あまり気持ちのいい夢は見ない。起きるとだいたい、
気も体も重たい。理想と現実の境界は、寝覚めが悪い気持ちによく似ている。振り返りたくは
ないけれど。なるべく前を向いて、仕事も写真も、少しずつ前へ進めていきたい。
悪い夢からはいい加減に目を醒ましたい。



2015年6月13日土曜日

Diary. 105 次の挑戦









































 モノクロ先生のところに行ってきた。無事、コンテストに提出したことを報告した。
何か賞でももらえると良いのにね〜、と言いながら、早くも僕が入選して東京へ行かなきゃ
いけなくなった時の心配ばかりしている。嬉しいけど、気が早すぎますよ。しかも、その期待を
裏切ってしまったらと思うとちょっと怖い。

 真剣に話すモノクロ先生。こんなに真剣に夢を喋ってくれるなんて、心底嬉しい。本当に、
佳作でもいいから、なにか恩返しが出来たらと強く願う。写真をやっていて、こんな気持ちになるのは
初めてです。

 「ここへ来るようになったの、おととしからだよね?」
 「いや、去年からです。まだ一年も経ってませんよ。」

 撮ってくる量も多いし、長話になることも多いから、もう何年も通っている気分。でも、
きっかけは去年の個展だから、実は一年経ってない。時間の感じ方が変わる。面白い。

 「次はあのシリーズやれば?街は街で続けながら。」
 「そうですね。そう思ってましたし、先生がそう言うなら必ずそうします。笑」

 結局その日も一時間、みっちり勉強させてもらった。持ち帰ったネガの束。順番に
スキャンしていくと、先生がベタ焼きを気にしていた意味がわかった。今回のは当たりだ、
ネガが驚くほど美しい。結局、ネガの仕上がりがプリントを決めるらしい。この人の作るネガは
芸術品だ。それだけで胸が踊る様。だから、また必死で撮ろうと思える。

 「じゃあまたね、どうもどうも。」

 優しい笑顔とお別れして、僕は心の中の半分の野心と半分の謙遜が道を伺いあっているのに気付く。
いつまでも自分のやり方を続けるために、まだまだたくさんの事を、写真以外からも学ばなきゃいけない。
そう思った。



Diary. 104 次の歩み






 思い返してみれば、約半年掛かりで仕上げたモノクロの作品集を、
今回のコンテストに出すこととなった。初めてのアルバム制作も、なんとか
一人で頭をひねってしぼって、作成、提出することが出来た。年に一度の大きな
コンテスト、しかも初挑戦。出せただけでも一つハードルをクリアした気分。
でも、やはり野望は大きく持って、最低でも佳作には選ばれたいな、なんて強く願う。

 早速次の制作に取り掛かる意欲が湧いてくる。撮り方は、きっと大きく変わらない気がする。
これからも、大きく変化することは無いのではなかろうか。撮りたいものが、定まってきた、かも。
 道具や手段は無数にあるから、どれを選び、どう組み合わせて、どんな仕上がりに調理していくのか、
そのレシピをまた一から探るのが楽しい。

 カラーも撮るけど、作品はやっぱりしばらくはモノクロになりそう。色が無い方が、言いたいことが
言える気がする。僕にとっては余計なことも、考え無くて済む気がする。きっと、そういう目を
持って最初から生まれてきているのだろう。今は、モノクロの目が一番しっくりはきてるから。
その感覚が消えてしまわないうちに、たくさん撮っておきたい。


2015年6月10日水曜日

Diary. 103 清く汚れた街






 カメラを首からぶら下げて当ても無く歩く。

 きっとそういう人生なんだと思います。

 これからも、今までも。

2015年6月9日火曜日

Diary. 102 白と黒の花






 花を一輪買ってきて、咲いて、散って、去っていく、
そんな時間の流れ方を目とカメラで焼き付けています。

 白か黒かなんてはっきり言い切れるはずもない、
そんな可憐で、儚くて、残酷で、無情な時の流れを、
一輪の色の無い花と、モノクロームの世界で、対話を慈しんでいます。

 世界っていったい、どこにあるんだろう。


2015年6月6日土曜日

Diary. 101 汚れた美しいもの





 きっと何事も相反する側面を持っているはずだって、

 いつも思っているらしい。

 写真を撮っているとそう思う。

 自分がどこかにもう一人はいるようだ。

2015年6月5日金曜日

Diary. 100 いつか咲いた芍薬の花





僕の世界は色を取り戻してくれるのだろうか。

このまま黒と影に覆われていても、それで一向に構わないとも
今なら思えるけれども。いつか咲く花を前にした時に、きっと後悔するのかも。


2015年6月3日水曜日

Diary. 99 大阪ストリート

































 とにかく記録を撮っている。ただやみくもに、撮り続けている。

 もうすぐコンテストの締め切りだ。果たして間に合うのだろうか。

 慣れない50mmスナップも、世界が圧縮されて見えることを利用できれば、

 少しは面白みを添えてくれるかも知れない。

 ちっぽけな世界観なんて、少しでも広げた方がいいに決まっている。


2015年6月2日火曜日

Diary. 98 花とカメラ



























写真とはまるで、恋に落ちているように思えてくる。

記憶喪失にでもなったみたいに、知らずにいた想いが込み上げ、

同時に何かが消えてしまったような、削ぎ落とされた欠落感を覚える。

そして二度と、戻っては来ない。


一体自分らしい自分とはどこへ行ってしまったのか。そもそも、居なかったのか。
それを誰か知っているのか、世界を知ることはそう容易いことではなく、いつもベールに包まれ、
そよ風に揺れた隙間からこっちを見て嫌味にほくそ笑んでいる。

僕はエルマーから世界を覗いてみる。世界は少し狭くて少し遠く見える。
僕は世界を4倍の濃度で割ってみる。見えにくさは見えにくさを増して、
逆効果である。真実は潰れて消え、虚像は潰れて消え、空虚だけが白く鈍い光を
放ってくる。構うものか。僕のフードは逆光を防ぎきれず目が霞む。肝心なところは
いつだって霞んで夢のように振る舞い偽ってみせるのだ。僕はまんまと騙される。

僕は世界を四角くしようと試みてみる。四角い窓から覗いてみると、世界は
大きな四角形のなかで中くらいの四角形に点線で切り取られようとしていたが、無力に見えた。
いや、それは無駄に見えた。僕は無駄に歯向かって右の人差し指をシャッターから離せなくなる。
左のポケットは軽くなってぺしゃんこになり、右のポケットは硬くなって塊りになる。
これが世界だ。僕が知りうる世界の全てだ。それ以下であっても、それ以上には成り得ない、
どうしようもなく空虚な世界がそこに四角く収められている、はずなのだろう。

世界は丸いのだろうかと想いを馳せてみる。僕は硬くて丸くない体をマットの上で曲げたり伸ばしたり、
反らしたり苦しめたりしてみる。相変わらず毎日は毎日だし、今夜は今夜で、明日はまた明日が来る。
同じことを繰り返す日々に嫌悪しているのに、日が沈んで見ればやはり今日は今日でしかなかったと
時刻が冷静に通達する。スマホの日付は変わり、インスタは1h、2hと適当なことを言って抜かす。
外人はカメラの美貌に夢中らしい。僕のモノクロームはちょっと添えたオブジェ程度に映るだろう。
でも、それでいい。回ることを考えたら、ひょっとすると世界は丸いのかも知れない

気温が上がり、日が強くなり始める。僕の体は僕の体のままだから、きっと今年もひどく
痛めつけられるのだろう。そんな覚悟はちっぽけでやっぱり無駄だ。僕は明日もあさっても、
精一杯に無駄を生きる。そうするしかないと、小さく覚悟した。



2015年6月1日月曜日

Diary. 97 再会






 花は美しい。蕾から、咲いて散り腐っていくまで、
心を傷だらけにしながら、ずっと美しいまま残っている。


2015年5月31日日曜日

Diary. 96 花が咲き誰知ることもなく散る






 花が散り、残るのは罪悪感だけ。無理やり心で遮断して、
今は自分の為が人の為世の為だと、思い込ませる努力をする。



Diary. 95 打ち崩せない毎日






 でも結局は自分が変わらなければ何も変わらない。

 誰にも頼りには出来ない。自分と対峙する、しかない。


2015年5月29日金曜日

Diary. 94 新しい毎日














街を撮るシリーズは続けながら、最近は花も撮り続けています。

カメラを3、4台、使い分けながら。

そんな日々が、新しい毎日を微かに、か細く呼んでいる、そんな気がしています。


2015年5月27日水曜日

Diary. 93 街行けば息が詰まる





















































今自分がどうすればいいのか本当に分からない。

何が欲しいのかも分からない。

誰かそばにいて欲しいのかも分からない。

毎日薬を飲んで、カメラを抱いている。