2015年7月28日火曜日

Diary. 111 選ばれた時代




 最近は読書にある程度の時間が避けるので、なるべく読むようにしている。
また、今の現状から抜け出す為にも、本がその力や栄養素になり得ると、思うから
でもある。実際、ご存知の方もおられると思うが、今は頭(心)が軽くエラーを起こして
いる状態だから、おそらく大きな間違いはなく、読書は僕の為になっている。

 戦後から70年代くらいまでの、日本人が書いた本が中心で、また特に面白いと
感じる。発想がシンプルで、力が込められており、アイデンティティがあり、深みがある。
写真にしても音楽にしても、そう感じることが多い。もっとも、僕の読書量や知識量なんて、
全く大したことは無いのだけれど。

 ふと、今僕がこの時代に生まれたことについて考える。必然性というか、運命というか。
どの時代に生まれたかったか、選んでみろともし言われても、特にない。きっと、今知り合えた
たくさんの仲間たちや先輩たちのことを思うと、この時代に生まれて結果的に良かったのだと
思えてくる。

 インスタグラムというのをやっている。昔からは考えられなかった道具だろう。手元から
一瞬にして、写真を世界中に公表し、いつでも世界中の誰かとメッセージの交換が出来る。

 先日も知らないアメリカ人からメッセージが届いた。僕が使っている古いフィルムカメラの
一つ、makina67について。このカメラは外国では特に珍しいらしく、先日もオーストラリアの
アーティストから質問があった。もし日本に来たら、連絡くれれば売ってる場所を一緒に
探してあげるよ、なんて、言ってあげるととても喜ばれる。もちろん、相手を見て決めているけど。

 乏しい知識を駆使して英文を作り、英語が堪能な友人に添削をしてもらい、メッセージを返す。
ちなみに今回の添削結果は70点くらいかな。まだまだ全くの勉強不足。これが会話となると、
もう一段ハードルが上がるから言語は難しい。でも、面白い。

 質問の内容は、makina67と他の同クラスのフィルムカメラとの違いは?というもの。
日本人でも外国人でも、考えることは一緒なんだなと思い、少しだけ世界を身近に感じる。
そんなもの、使ってみたら一番よく分かるよと言ってやりたいけど、ここは親切に自分が思う
違いを伝えてあげた。でもその方が、なんだか嘘っぽくも感じた。

 結局は道具だし、違いなんて、あるけれども無いに等しい。ただ、写真を撮るだけなのだから。
でも確かに、同じような悩みを僕も数年前には抱えていたのも事実。時代が変わっても、
人間そのものは、以外と大きく変化していないのかも知れない。

 もうすぐ7月も終わる。今年の前半は波乱続きだ。仕事も軌道に乗せていかなきゃいけないし、
またそのうち次のコンテストの締め切りも迫ってくる。次はどの道具を使い、どんな表現に
まとめるのか、同時に進めていきたい。この時代に生まれたからこその、人生の選び方、
進め方。もう折り返しは過ぎているだろうから、月並みだけど、後悔しないようにやりたい。
少しくらい周りに迷惑はかかっても、らしさにはこだわりたいと、今は思っている。





2015年7月25日土曜日

Diary. 110 結末





 休日の昼間、突然ケータイが鳴って、知らない番号が表示された。願っていた場所からの
連絡かも知れないと思い、急いで取ると、願いとは真逆の言葉が待っていた。

「東京から着払いの荷物が届いています。」

 初挑戦だったビッグコンテストへの応募は、この瞬間にあっけなく終わった。選外。

 丁寧に梱包されたフォトブック。返却する作品にもちゃんと敬意を払ってくれている
ようで、好印象を覚えた。

 約二ヶ月前、少し興奮しながら、初めて自分の作品を一冊にまとめた。締め切り直前、
最後は清々しい気持ちで東京へと送った。その、つたないフォトブック。

 久しぶりに開いてみると、すぐに思った。「これでは、駄目だ。」

 元来お調子者だから、作品をまとめて送った直後などは、これは少なくとも佳作には
ひっかかるんじゃないか、なんて、強くは思っていなくとも、根拠のない自信が確かにあった。
 しかし、こうしていくらかの時間が経って、再び自分の作品と向き合うと、なんとも極めて
頼りなく感じた。力強さを感じない。全く物足りないのだ。俺はこんなもんか。すぐに閉じて、
ちょっとふてくされた。これからどうしよう。いや、まだ始まったばかりだろう。

 少し経って、もう一度しっかり見直そうと考えた。約半年がかりで撮り溜めた数百枚、
その中から選んだ44枚のモノクロプリント。一枚一枚、思い出を振り返るように確かめていく。
すると、さっきとはまた違った感情が生まれた。

 すごく良いものも、中にはある。もちろん、他人に評価されるかどうかは分からない。
しかし、誰に対してでも、これは良い写真だと胸を張って言えそうなものが、少なくとも
数枚はあると思ったのだ。
 もちろん、逆もある。どうしてこれを44枚に含めたのか、枚数を稼ぎたいだけで、全く
要らないカットを組み込んでしまったと、大きく反省するものがたくさんあった。

 プリントを直接貼り付けた台紙の、角がことごとく潰れて曲がっていた。これはきっと、
審査員が念入りに僕の作品を、何回も見たからに違いない。なんて、飛び切り前向きに
考えてみたら、一人で笑えてきた。おそらく、最後の最後まで佳作に入れるかどうか、
審査員は悩んだに違いない。と言うことは、この調子だと来年は絶対佳作以上だな、
間違いはない。そんなくだらない妄想を頭でつぶやいて、自分を労った。

 もちろん、そんなはずはない訳で、単に重みで台紙が傾いて、テーブルや床にぶつかりまくったから
曲がっただけのことなのだ。でも、そうでも思ってやりたい気持ちになった。僕に対してではなく、
こうして存在してくれる写真に対して、そう感じた。作品は、作品になった瞬間、僕の手から
離れるのだろう。不思議な感覚だった。

 おのずと、これから僕が撮ろうと思うものが定まった。コンテストで選ばれても駄目でも、
結果が出ることで、次の行き先が少し見えてくるだろうと言うことは、なんとなく気付いていた。
実際にその通りだった。迷いがなくなって、ホッとした。そして、生きようと思った。

 相変わらず僕はダメダメで、全くの落ちこぼれ。幸運にも、生まれながらに授かった
そこそこの人柄だけで、ここまでなんとか生きてこれているようなもの。そんなやつが、
写真なんて余計なものを始めたものだから、さぞ神様はお怒りだろう。それとも、
もう諦めてくれただろうか。

 僕の写真が今のスタンスになって、初めての夏が来た。この強烈な光線がモノクロネガに
どう作用して、どんなプリントが生まれるのか、楽しみではある。

 不器用に生きながら、また一枚一枚と記録を残していく、その静かな再出発になった。





2015年7月23日木曜日

Diary. 109 再び街へ































 どうしてこんなにも街を撮るようになったのかと言うと、
気がつくと撮り続けていたというのが一つと、撮りたい意思があるというのが
一つ、つまり、無意識と意識の両方が理由にある。

 6、7年写真を撮ってきて、人や、服や、景色や、花や、いろいろと撮ってきたけれど、
未だに気がつくとカメラを向けてしまっている、それが街だ。無意識的に
撮り続けているし、つまり、よく分からない何かに魅了されつづけているということ
なんだと思う。

 意識的に撮るようになったのは、そんな無意識の自分に気付いてからで、
そこに何があるのか考えているうちに、なるほど、僕は何かを探してさまよって、
もがいているからなのだと思うようになった。街には、街以上のものがあるし、
写るし、また自分の気持ちみたいなものも反映される。僕はどこかへ帰りたい気持ちと、
何かを壊したい気持ちを、街を撮るという行為に知らずのうちに込め始めていたのでは
ないかと思う。

 僕は多分、人にしか興味がない。まわりの付属はどうでもいい。目にすら入らないことも
たくさんある。街には、この同じ時代を生きるさまざまな人間が写る。正確には、
人間の思いや、意図や、感情や、実際に物体としての人物そのものも、写ることがある。

 そして何より街には空気が漂っている。大阪だからとか、そんな固有名詞は僕には
関係なくて、今、こうして、たまたま縁もなく住んでいる街、それがたまたま大阪という
地名だっただけで、どの街にも間違いなく、空気が漂っている。目には見えないかも
しれないけど、たしかに肌とか、呼吸から感じ取れる空気なのだ。僕は偶然この街に
今いるから、今いるこの街を撮りたいと強く思う。

 カメラを持って街をうろつく時、僕は永遠に迷子になったような気持ちになる。
しかもきっと、この迷子にはもう帰る家がない。だから、街に帰ろうとしているのだと
思う。そしてどこか入り口を探して、ファインダーを覗き、その記録としてシャッターを
切っているのだと思う。自分がさまよい、街に帰ろうとした、その記録を。

 いつまでそんな記録を残し続けるのだろう。誰のためにもならないだろうに。でも、
迷子は自分が迷子であることに気付きながら、どこか認めたくなくて、明日もあさっても、
カメラを片手にまた街を彷徨うのだと思う。いつか本当の、帰る場所が見つかるんじゃ
ないかって、心のどこかでほんの少しだけ、信じているのだと思う。




2015年7月22日水曜日

Diary. 108 咲かない蕾





 机上の花。茎を切り、葉を落として、尚も水を吸い上げていた。

 でも、一向に開かない、咲かない蕾。

 これもまた一つの生命。人間のちっぽけな観念で捉えて、
悲しみなど表するのは身勝手な幻想に過ぎない。生きることは、
容易く無い。

 人は呼吸を止めた時、終わるのだろうか。それとも、諦めた時に
終わるのだろうか。終わりなど無いのか。

 勢いづいたはずの七月は軽くつまずいている。見計らったかのように
梅雨が明け、暑さが押し寄せてくる。唯一の武器だと思ったカメラも
さほど手に付かない。過去の溜まったネガフィルムを一枚、また一枚と繰っては
繰り返している。

 過去に未来を見出そうとする自分がいる。