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2022年6月17日金曜日

Windows.5


 

 自らの写真を人に語る上で、その際、

特に外す事の出来無い趣旨とはなんだろうか。


 人によって様々ありそうだ。その人なりの、生き方に

近いのかも知れない。


 自分はどうか。自らの生い立ち、写真と出会ってから、

写真を撮ろうという意思が生まれ、育ち、歩き、ここまで続いた、

流れであろうか。

 何故写真を撮るのか。

ある意味でそれは聞くまでもなく当然であり、

ある意味でそれは聞く意味を持たない程に存在しないように思う。


 撮りたいから撮る、みな、そうなのではないだろうか。


 カメラが好きな人もいる。僕もかつて、かなりそれに寄っていた。

今はなんでもいい。写れば良い。自分の撮りたいように写るなら、

道具はなんでもよく、むしろ、

このカメラだからモチベーションが上がる、などという感覚は

はっきりと邪魔である。必要無い。


 このモノクロの花も、何故撮ったのかなんて、

そのシャッターを切った瞬間に隣にいて聞いてくれないと、

覚えていない。

 後付け、写真を撮る意味とは、撮った意味とは、

昔話を思い出す時の同じように、記憶を巡らせるものである。


 こちらを向いていた、彼ら、彼女ら、つまり花は、

こちらを向いていた。視ていた訳では無い。

だから、僕は視た。視線を向けた。そして儚く思い、

写さずにはいられなかった。きっと、そうであった。


 そして後日自らのリタッチにより、写真は生まれる。

今の僕の写真は、リタッチあってこそ全て包括される。

あの10年ほど前のように、無補正で撮り続けていた時とは、

逆というか、全く向いている方向性が変わった。

僕の今の写真は、後から手を加えて、完成へと、近づける。

妄想へと、夢へと、決して具現化する事のない白昼夢へと、

近づける作業、それが写真となりつつある。


 もう少し続けて、これを形にしていきたい。

あと少し。


 だから、

あと少し、

撮らなければ。

写真という存在を。


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